Itsukushima Perry

Problems with early guitar educationギター早期教育の問題

1959年(昭和34年3月1日発行) ギターの友社 3月号[第42号]
『ギター教育の諸問題』と題し、『清志のギター(荘村正人)』、『年少門下生指導の実際(奥田紘正)』、『加藤操を育てて(田村敏夫)』3氏の1950年代における「年少者」のギター教育を実践された記録が 紹介されています。[*出典]digitalguitararchive/1959-42-ギターの友/P.12-P.18より

上記内容とは異なりますが、お宅訪問として『ギター一家 佐々木政夫 氏宅』を掲載いたします。[*出典]digitalguitararchive/1958-08-No.16-ギタルラ/P.13より


1950年代の時代背景

日本の成長は、朝鮮戦争から高度経済成長期にかけて非常に顕著であり、戦争後、日本はアメリカの援助を受け経済復興を進め、特に1950年代後半から1960年代にかけて急速な成長を遂げました。
[*1]日本は「高度経済成長期」と呼ばれる時代に突入し、政府はインフラ整備や教育の充実に力を入れ、工業化・技術革新を進めて経済の基盤を強化しました。
また、輸出主導型の経済政策を採用し、日本製品の品質向上と生産性の向上に努めた結果、日本は世界第二位の経済大国となり、国民の生活水準も大幅に向上します。
社会情勢が安定期に入ると、大衆に精神的な安定の兆しが見えると、人々の欲求は娯楽を求め、教養に目が向けられた。
1950年代から一流の音楽家が続々と来日し、音楽文化が大衆に紹介・啓蒙されていきました。

高度経済成長期(1950年代後半から1970年代初頭)のクラシック音楽の動向は、日本国内外で多様な発展を遂げています。
日本は急速な経済成長とともに、文化的な多様性が増し、クラシック音楽もその一環として進化しています。

<高度経済成長期のクラシック音楽動向>

[西洋音楽の影響]: 高度経済成長期には、西洋のクラシック音楽が日本に大きな影響を与えました。
特に、ヨーロッパの作曲家たちの作品が日本で広く演奏され、学校の音楽教育でも取り入れられました。

[日本の作曲家]: この時期には、日本の作曲家たちも活躍し、独自の作品を作り出しました。
例えば、黛敏郎や武満徹などが挙げられます。彼らは西洋のクラシック音楽の技法を取り入れつつ、日本の伝統音楽と融合させた作品を作りました。
オーケストラとコンサートホールの発展: 高度経済成長期には、オーケストラやコンサートホールの数が増加し、クラシック音楽の演奏機会が増えました。
これにより、一般市民もクラシック音楽に触れる機会が増えました。

<高度経済成長期のマスメディア動向>

[テレビとラジオの普及]: 高度経済成長期には、テレビとラジオの普及が進み、クラシック音楽の演奏やコンサートの模様がテレビやラジオで放送されるようになり、より多くの人々がクラシック音楽に触れることができるようになりました。

[音楽雑誌の増加]: 音楽雑誌も増加し、クラシック音楽に関する情報や評論が広く発信されるようになり、クラシック音楽に対する関心が高まった時期です。
[レコードの普及]: レコードの普及により、クラシック音楽の録音が一般家庭にも普及しました。これにより、クラシック音楽を自宅で楽しむことができるようになりました。
クラシック音楽とマスメディアの相互作用が進んで、日本の音楽文化に大きな影響を与えたと考えられます。


[*参考文献]:
[*1][*2]尚美学園大学芸術情報学部紀要 第4号 クラシック音楽文化需要の変遷 皆川弘至 P.107




このページの紹介ギタリスト : 荘村正人 奥田紘正 田村敏夫  佐々木政夫

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[*転載]:digitalguitararchive/1959-42-ギターの友より

その1 良い演奏

荘村正人氏宅
荘村正人氏と清志氏
荘村正人 [Masando Shomura]

清志のギター

4男 清志(12歳)が決して立派なギターリストの素質を備えているわけでもないし、又かって1回のリサイタルを開いたわけでもありませんので、従ってこの拙文は10歳の時から極めて自然にギターを始めた少年が、どんな状態でギターに親しみかつ愛好するようになったかという道程を皆様に御読み戴いて、ギターの友社よりの責を果そうと存じます。

[環境]
私の家では長男も次男もそして私もギターを弾いております。
然し長男は20歳頃から、次男は18歳頃から、かく申す私も19歳から弾き始めたのです。
従って四男清志は小さいときからギターを聞いていたことになります。


[ 発端 ]
31年(1956年)の12月、清志が9歳の或る夜、私が弾いている側で清志はいつになくヂッとギターをみつめその音を聞いていました。
家内も傍にいて何かやっていました。
ギターをみつめている清志の顔を見た時、私は言ったのです。
『ギターを弾いてみるか?」すると清志は極めて自然に「うん」と笑ってうなづいたのです。
幸い拙宅には峰沢泰三さんとその御厳父宮蔵さん(もう八十何歳位)合作のラコート型ギターがあったので、これを持たせて、ドレ、ミ、ファと音を出させてみると案外スラスラとその場で覚え込んでしまいました。
「これはいける!」と私逹は一種の興味を覚えたのです。その晩清志が寝てから私は家内に清志にギターを教えようかと相談すると家内は直ちに賛成してくれました。


[ 楽器 ]
ラコートでもやはり清志にはまだ少し大き過ぎるような気がしましたので、早速翌日名古屋の加納実さんのところに電話して、子供用ギターの有無を御問合せしたところ、児童用ギターとして大量生産したものがあるから取り寄せておきましようとのことでした。 明けて32年1月名古屋に所用のあった家内と一緒に出かけて、加納さんから児童用ギターを入手しました。1700円だったと思います。

[ 教科書 ]
カルカッシではとても固過ぎると思われましたから、早大時分の長友小原安正氏に事情を書いて適当な教科害を問い合せたところ、早速同氏の著になる本を送ってくれました。
春の小川や蝶々等を要所に入れて全く子供にはおあつらい向きの本でしたので、清志は気楽に次々と頁を征服してゆきました。


[ 練習 ]
当初の間は「興味をもつように」「面白味をいだかせるように」と考えて弾かせていましたが、半年を経た頃から一寸固いかなと思われる練習曲を厭からずにやるようになってきました。
けれども何しろ子供のことですからやれ千葉が、大下が、青田がホームランを何本打ったと兄達と話し合っている時に友逹が野球やろうか等といってくると、ギターなんか放り出して暗くなるまで野球をやってくるのです。
それで夜分、指定しておいた曲を弾かせてみると弾けてない時など、私に熱が入っているものだから、遂何度も何度も弾かせていると、清志の顔の形が俄かに変ってきてボロボロと頬に大粒の涙がつたわるのです。
「しまった」と思っても、もうおそいのです。
こんな時私はお母さん洗面器を持ってきて」というのです。 (雨を洗面器に受ける意)すると清志は「くす!」と泣き笑いして鼻をこすり、頬ぺたをなぜて、又弾き続けます。
然しどうしても泣き止めないと思った時は直ちに弾くのを止めさせて「よく弾いた又やろう、さあしまって、しまって」と頭を撫ぜてやると、忽ち元気が出て楽器を納うと、とたんににこにこしている時もありました。
そんなときもう厭になって弾かないのかなと思うのですが、一向そんな様子もなく気前よく練習をするのです。きっと泣くときは弾けぬときなのです。
夏は学校へ行く前30分を練習時間にあてました。
一曲を完全にマスターしないうちは次の曲に移らない方針をとっています。

この年11月に前記小原氏の本を終了しましたので、京本輔矩氏の「ギター基礎技巧」の内のアルペヂオ及びスケール応用のもの各一曲宛、それからセゴビアのスケールを一曲宛入念に仕上げさせています。
カルカッシは左手の運指の指定が欠けていますのでやりません。
第2年目の昨年始めからは前記の外音楽的に最も高く然も親しみ安いと思われますのでソルの曲を一曲宛、それからセゴビア運指のソルの二十五の練習曲を一曲宛加えています。
スケールは20分以上、その他のものは15分宛、それでも合計すると1時間半乃至2時間になります。
これは現在毎日やっています。


[ 他からの刺激 ]
練習を始めてから間もない頃、大野亮子さんのピアノ日誌を家内が清志に読んできかせていました幼児から音楽をやるにはどんな風にやったらいいかということが親子共々勉強になりました。

荘村正人氏宅
荘村正人氏と清志氏

※―咋年田村敏雄さんのお弟子さんの試演会を聴きに連れていったとき、南谷博さんが非常に立派なマンドリン演奏を示されました。
閉会後中野二郎さんのお話に『南谷君が今日立派な演奏をされことは決して偶然で和ありません。小さい時からお母さんに手を引かれて雨の日も風の日も私の所へ稽古に来られ、練習は一日として休むことなく続けてこられたからこそ今日のあの立派な演奏となったもので・・・」
清志はこの中野さんの御話に強く胸を打たれた様子で、時々このことをわれわれに話していました。

昨年5月には、ゴンザレス氏が小原氏と共に拙宅に来て下さって親しく清志の演奏を指導して下さいました。
其の他レコードに或は演奏会等に出来るだけ見聞を広くするように努めています。


[ ステージで ]
一咋年10月岐阜ギター音楽協会の「ギターを楽しむ会」に初めて清志もステーヂで弾かせて戴きました。
メルツのアンダンティーノ、ハンデンのワルツでした。
私はステーヂにのせる曲は「無理のない曲を充分練習して」清志に自信をつけさせる方針でしたので、先ず先ず完壁に近い演奏でした。
「どうだった」ときいたら「僕の番がきたら胸がドキドキしてきたけど、弾きだしたらなんともなかった」と笑っていってました。
昨年の伊東先生の試演会にはパガニーニのソナチネを弾かせて戴きました。
これも約半年ミッチリ練習してありましたから満足した出来でした。

然し昨年秋のギターを楽しむ会のソルの練習曲第5番は何故かあがってしまって駄目でした。
これはとりもなおさずやはり練習不足であったと結論づけられます。
前回の出来に満足した私がつい或る安心感から充分みてやらなかったこと、或程度彼に委かせたことの為等と思われました。

そこで今年1月の伊東先生宅での新年初弾きの会にはもう一度この第5番を弾かせることとしました。
此のたくらみは成功でした。彼は前回の失敗を取り返そうと思ったらしく、自分でテープに録音してみたりして熱心に練習を繰り返しました。


[ 再び楽器について]
10歳の8月頃児童用ギターをやめて例の峰沢さんのラコートに変えました。
そして11月には中出さんのコンサート用に変えました。
成長期の彼はぐんぐん背丈けものびてゆきます。
咋年の5月にはラミレス2号に変えました。
早く上逹させるには弾きやすいそして良い音のする楽器という考えの為です。


[ 学業 ]
一年から今日迄クラス委員をやらせて貰っています。ギターを始めたからといって学業が落ちたとは思えません。
けれど五年生の二学期にはたまに変な成績を貰ってくることがありました。これはテレビとギターと野球の挟み打ちのためと思われ、家内と論じ合いました。
結論は「高学年になってくると、やはりそれなりの勉強をやらぬといけない」ということでした。
清志も了解して更に勉強しますのでこの頃は又もとのような成績を貰ってくるようになりました。


[ 終りに ]
何しろ彼も忙しいことです。
勉強、ギター、野球、テレピ、それでも病気一つせず元気に毎日やっています。
家内が言っていました。「お父さん清志この頃きちっと弾くようになってきたし(四国弁で幼稚さを脱した意味)音も良い音を出すようになったわ。とっても」と。


[出典]:digitalguitararchive/1959-42-ギターの友/P.13

その2 正しい指導

奥田紘正
1960年 飯田裕三君と奥田紘正氏
奥田紘正 [Hiromasa Okuda]

年少門下生指導の実際

ギターに限らず、年少者の指導と云う事は仲々大変な事と云えましょう。
ましてギターと云う楽器は、その特殊性の為に余計に苦労しなければならないように思われます。
一般のギター教程と言うものがあまり統一されていない今日、子供の為の教程が実際面として、基本的に整備されていないのも止むを得ないとも申せましょうが残念な事です。
まして今後益々盛んにならねばならないギターの早期教育と云う事を考えます時、一日も早くその実現を願い度いものです。
私が約十年の間に小学生の子供逹を教えたのは十四、五名にしか過ぎないのに潜越とも思いましたが、少しく考える事が有りますので敢えて筆を取った次第です。
御了承願い度く存じます。

ギターの友社から御指定を受けましたので門下生の一人、飯田裕三君についての事を書いて参りましょう。
飯田君は昭和24年3月20日生れ、現在満9歳、30年12月に初めてギターを学びましたがその前に約1年程ピアノを習った事があり、又現在はギターの他にバイオリンも3年近く習っています。

最初は北沢俊明君に学んだのですが、仲々ギターが好きで、バイオリンよりもギターの方が面白いと云って居りますが、そこは子供の事とてあまり慾が有りません。楽器はやや小さめのものです。
(中出氏作)初めからアボヤンド奏法で簡単なスケール及開放絃のタイム練習、ついで単音に依る童謡のメロディ(リズムの単純なもの)之を何回も強弱をつけて練習し、次に同じメロディをオクタープ上げて行いました。
調はハ長調、卜長調、イ短調、ホ短調等を主にしたのですが、之等のオクタープに依る練習は案外成功した様に思います。

本格的な教材としては、主としてアレナス教本のものから取り上げました。
ソル、アグアド、カルカッシ、カルッリ、コスト等です年少者の場合には、弾く事の楽しみを特に早く持たせなければいけません。
その意味で生徒の知っているメロディを用いる事は必要でしょう。
然しその選曲には十二分に注意せねばなりません。

半年程はスケールをあまり早く弾かせない方が良い様です。
何しろ手が小さいのですから少し早めに弾くと音がツブれたり、スタカットの様になってしまいます。
此の時期に音色の美しい楽器である事、つまりギターの良さをその練習を通して自己のものにさせるペきでしょう。

アルアイレ奏法は半年程してから練習しはじめました。
之は一つ一つ、弾き方を身につけていった方が良いと思ったからです(和音の時は、勿論アルアイレを用いて居りました)ついで和音ですが、之は難かしいもはさけ、主要三和音、及属七程度の簡単なものを用いました。
「月の沙漠」等のメロディを低音に用い、和音をリズムとして高音絃に置きました。

奥田紘正
飯田裕三君

7歳半頃になって「みかんの花咲く丘」等を高音にメロディー・低音部に和音・リズムを配し第5ポジション附近で3絃あたりまで押絃を使いました。
この時期になりますと左手の手首の位置は相当良くなります。つまり自分である程度の変化がつけられます。

右手ほ手の長さが短かいので(楽器が大きい為に余計感じます)最も苦労する頃です。
メロディで単音の部分は必ずアポヤンド、之は高音部でも低音部でも必ずそうさせました。
又そうする事に依り強弱の差がタッチに依って生れる事を知ります。

つまりメロディーと伴奏部との区別をハッキリ理解させる事になります。
右手弾絃の位置は大人よりも指板寄りでしたが、この右手位置移動に依る音色の変化は未だ教えませんでした。
注意力を分散する事は未だ無理と考えたからです。

8歳を過ぎてから附点音符を多く用いた曲でゆっくりしたもの、合せてアグアドのアルペヂオ練習カルッリ、ソル等の練習曲、各種のスケール等。左押絃の各指は少し独立性がついてきました。
和音の際の指は相当開く様になったわけです。

一例を上げますと一絃の3フレットのG、5絃のH、6絃のGのG和音を4.2.3の各指で或る程度楽に押さえるが出来る様になりました。

宿題は普通2曲出します。
1曲は一寸難ずかしいと思われるもの一曲は少しやさしいもの、之は易しいもので自信を持たせ、もう一曲で努力を求めたわけです。
此の間にも必要なアルペヂオは右の2曲以外に3ヶ月程ずつ続けて練習させました。

その後9歳になって横尾幸弘氏の「ABC変奏曲」ロカモーラの「マヅルカ」等を弾いたのですか「ABC」の短調に転調する部分ではセーハしながらの左指の変化に一寸苦しんだ様でした。

此の頃には右手位置の移動に依る音色の変化も教えてありました発表会には5回程出演しました。
人前で弾く事は子供にとってもハゲミになり、それらの曲は良く練習した様です。

前後しますがテンボの練習の意味で2年目位から二重奏を用いて居りましたが、此の時分にはフォルテアのソナタ、その他モーッアルト、ハイドン等の小品をアレンヂして弾かせました。

大人でもそうですが、二重奏その他のアンサンプルは必ず用いるべきと思います。
まして子供の頃からリズムを正しくさせる事は、その将来に重大な影惑をあたえるはずです。
然し複雑な和音の変化の際にはしばしばくずれ勝になりますからその選曲には特に注意を要するところです。

9歳半になってヂュリアーニの作品71番のソナチネ全3楽章之は各楽章とも適当と思えるテンポで弾ける様になりましたが、最大の欠点は2声部に於ける音の長さに不足が生ずる事です。 之は左手が小さい為、高音部のメロディを弾く際どうしても低音の長さが(押絃の場合ですが)満足に伸びないのです。
と言う依りも低音部の動き、流れが良く理解出来ない為におきる事かも知れません。
低音部にだけメロディーがある場合には気がついて弾けるのですから・・・・。

手が小さい為に、二声部、三声部のものは今後特に気をつけて練習させ度いと思って居ります。
三度、六度、八度、トレモロ、スラー等はやさしいものから適宜使用して来たつもりですが、回音、カンパネラ、技巧的アルモニコス等は未だ練習させて居りません。今後の課題でしょう。

現在は、東京ギター・アカデミーに入学するべくその勉強をしています。
ヂュリアーニの作品96のソナ夕はテンポの早い部分は大体良いのですが、グラジオーソの部分は一寸弾きにくそうです。

発表会、その他人前で弾く会の前は良く練習しますが、その他の時にはどうしても遊び時間が多くなりやすいので、此の点が難かしいところです。
ゴンサレスの前で「ABC変奏曲」を弾いた当時は握手などして喜んで練習して居りましたが・・・・。
今後はアカデミーが出来ますので良い刺戟になるだらうと楽しみにして居ります。

尚硯在右指の爪は伸ばして居りません。子供の場合には家庭の理解がなければ、その才能を伸ばす事は不可能に近いのですが、飯田君の場合には、家族の皆さんが熱心ですので実に恵まれていると云えましょう。
特に藤沢市に私の教授所が出来る前には、藤沢から杉並の教授所迄毎週一回一処に通って来られたお母さんの愛情と熱意には感心して居ります。
お父さんは映画評論家飯田心美氏です。

咋年の11月末、学校のアンケート「こんな人に私はなりたい」に飯田君は次の様に書いています「僕はギターの先生になりたいです。だけどギターの先生になるには色々むづかしい曲を習いおぽえたりしなければいけません。 それに作曲もする事があるかも知れません。だから時々なるのよそうかなと思うことがありますが弱気を出さないでしっかりやっていこうと思います。 それに今ではよけいな事にバイオリンを習っているので両方なんか無理だと思います。お母さんはバイオリンを習っていると音感が良くなると云いますが.ギターならギターだけでやってぐんぐんギターの道を進んで行きたいです」。

[出典]:digitalguitararchive/1959-42-ギターの友/P.14-P.16

その3 たゆまぬ努力

田村敏夫氏と加藤操さん
田村敏夫氏と加藤操さん
田村敏夫 [Toshio Tamura]

その3 たゆまぬ努力

操さんがギターを始めたのは小学1年生の昭和25年の夏頃である。
北区のマルエス楽器店で小中学生に対する出張教授をしている頃「算盤の塾へ行ったところ算盤は二年生からと言われたのでギターでも習いたい」と言って来たのが操さんである。
昭和24年の7月から始まった児童ギター教育2年間の生徒の一人であるが、私の児童ギター教育について少し触れて置きたい。

昭和23年の秋頃小中学校の器楽教育の中に、ギター、マンドリンを採用して貰うための運動が文部省に対して名古屋の楽器製造組合を中心に積極的に始められた。

当時は資材が不足で割当制であった為め、その採否は業者の死活問題であり、全国的な運動に展開して行った事がある。
この頃名古屋の水野楽器製作所で児童用として四分の三ギター2台が試作された。
その1台を譲り受け当時面倒を見ていた小学2年の男生徒に与え、私としての最初の児童教育が試られたのである。

翌24年の春頃、前記水野楽器社長の厳父正一老がギターの早期教育について中野二郎先生に相談されたところ先生が「田村君が適任だろう」との事で私に是非バイオリン式のギター早期教育を始めて呉れとの依頼があった。

児童に対する指導方法はあれこれ研究中で、パイオリンの才能教育のような効果や運動をギターで試みるには全然自信が無いので引き受け兼ねていた。


同年7月小学1年生より中学1年生までの児童約10名が水野老の斡旋で集められ、教室も準備されて私の児童ギター教育が試験的に開始されたのである。
当時の生徒は楽器関係業者の子女が多く、第五回のギタルラ社主催コンクールに中学三年生で第3位に入賞した矢入陽子さんもこの時の生徒で、当時小学5年生、お父さんは矢入楽器製作所を経営して居られる。

如何にして児童逹にギターを教えるか、全くの暗中模索、幾多の疑問、困難に逢い、幾度か修正変更をつゞけたところの指導方法の詳細は発表を差控えるが、大体次のような方針で進んだのである。

一般のギター教本の練習曲は、児童達にとっては全く耳馴れぬ旋律であり和音の連続であり、到底ギターを楽しんで弾く気になれないだろう。
又親逹も子供が何を弾いているのか興味をもって見守ってやる事も出来ないだろう。
オリヂナルの練習曲はしばらく置き、まず馴染みのある旋律でギターの稽古をはじめ、興味を失わぬよう長く続けて演奏技巧と音楽を身につけさせたいと考えた。
童謡唱歌等の著名なものを個別に編曲して、青写真で「ギターの本」を編纂し、初歩教程としたが、当時中村登世子、保坂益朶両先生に請われて贈呈した事がある。

さて加藤操さんもこの教材によって私独自の方法で他の生徒と一緒にギターの勉強を始めたのである。
コンクール入賞の矢入さん始めかなり弾ける先輩やお友逹が多勢いたため、操さんも大いに刺戟を受けて常にギターに興味を失わず、堅実に進歩を続け、第12回の定期発表会の時に、小学6年生であったが、カルカッシの「ルソーの夢変奏曲」を見事に弾いてその存在を示し始めたのである。

小学生の頃でも、お母さんの話でほ「今日はギターのおけいこですよ」と注意を受けることなく、自身でレッスンを受けに来た。
長い年月殆んどレッスンを休んだ事が無く、お父さんが奇病に罹り長く入院、再起不能かと案ぜられた昭和31年の夏頃から約半年間レッスンを休んだのみである。
仲々の頑張り屋さんで、小学生の頃名古屋の民放CBCでの「仲良しクラブ子供音楽会」に数回出演して見事全部合格した。
出演の為猛練習をして右手指頭に時々血豆を作っていたが、それでもよく頑張って練習を続けていたのを覚えている。
お父さんが入院生活を続けておられ、家庭内も暗い気分に包まれていたころであったろう、レッスン日に練習が不十分で私が注意をしたとき、ボロボロ涙をギターの上に流しつつ、「もうよろしい」と私が言っても、ギターを弾き続けると言う意地っ張りの強いところもある。
体格が中々立派で、学校の成績も上位のようで、小学校の頃には健康優良児として度々表彰を受けているほどで、長時間の練習にも耐えうる体力にも恵まれている。
姉さん2人妹さん1人姉妹であるが、操さんのギターの勉強にはご両親とともに深い理解を持ち、よく協力支援を長く持ち続けて来ておられるのが、大きな力となっていることは忘れてならない。

田村敏夫氏と加藤操さん
1960年 加藤操さん

一咋年の秋第16回定期発表会で、ソルの「主題と変奏」作品九番を見事に弾いてのけた後、本人及御両親に相談して、咋年の1月より7月まで操さんを私の家に預かって、ギター演奏家への道を進むために、本格的にギターの勉強を始めて貰った。
同居中の操さんを見るに、子供ながら親の許を離れてギターの勉強をしようと決意しただけあって実によく練習する。
操さん自身すでにギターの美しさ楽しさがわかっているのと平素私が心構えを話すのをよく理解していて、学校の試験の時でも帰宅して十時頃まではギターを弾いている。
その後一時頃まで試験の準備をしていた。
「困難なパッセヂがあれば何10回でも出来るまで練習しなさい」との私の注意をその儘忠実に守って、別室で聴いていても、真に驚く程反覆練習をつづけて征服しょうと努力している。

発音の悪い所、音質の悪い所、テンボ、フレーヂング、和音等々私が気付いて、彼女の演奏力に妥協せず、容赦なく要求すれば出るまで追求して行く忍耐力と体力をもっている。
未だ自分自身でいろいろ研究工夫して所謂音楽的演奏を作って行く能力は不充分ではあるが、半年間の同居期間中に操さんは著しい進歩を示した。
特に音が美しくなった。
アイマイな音が少くなった。
ロッチの教本等によって両手指の技巧も大分上逹して来た。

平素、操さんの指導に当っては、名演奏家のギターレコードを聴かせていない。
私自身LP1枚も無いし、プレイヤーも持っていないので、ここ数年来レコードを聴く事は稀で、時にラヂオのギターに耳を煩ける程度である。

操さんに対しても他の進んだ研究生同様、私自身が名演奏を聴かせる能力を持っていない。
新しい課題を与えて、操さん自身で勉強させ、その演奏について種々注意をするのであるが、彼女の場合特にその注意が細部に亘るのが常で、全体として速度の整然とした清潔な演奏を指導している。
過度の練習の結果左手中指の指頭を痛めて十年その間四回手術を受けているので私自身殆んど演奏については勉強をしていない。
演奏家への夢を捨て、ひたすら良き養弟家たるぺ<生きて来たが、左手指頭は常にやわらかに保って置かねばならなぃ。
演奏に差支えない程度に左手の爪を伸ばして羅くのも一方法でこの爪を丁度右手の爪の様に用いるとスラーのハジキ音が奇麗に出せる。
操さんは硯在この方法をとっている。

現在中学3年生、あど3年間高校卒業までは至らぬながら、私が面倒を見て行くつもりで、ギター曲の標準と思われるものを、古典を中心にして勉強させ、特に技術的なものを多く課題に与える方針であるが、現在操さんに最も不足しているところの音楽的演奏を自分自分で作って行く能力を、漸次養成して行きたいものである。
約10年間に私が接して来た児童の数は恐らく百人を超えるであろう。
操さんや矢入さんに比して遜色の無い、否むしろそれ以上に将来を期待し得る能力や、演奏を示した生徒も少くなかったが、大半は高校入学の頃学業のためにギターを棄ててしまった。
全く思い出しても惜しい子供逹が何人か居た。
ギターの専問教育の確立を見ない現況では止むを得ない事ではある。
何事によらず長い年月を一筋に精進すると言う事は本人は勿論家族にとっても極めて因難な事である。
が、その因難に堪えて努力をつづける者にとつてのみ、その成果は期待出来るのである。

児童に接して来て先生たる者は特に強い忍耐と深い寛容が必要なことを忠告もされ、又身を以て体験して来た。
決して短兵急な成果をあせってはならない。
将来性あるかも知れぬ子供を、双葉で枯らしてしまってはならない。
長い眼で慈愛の眼で見守ってやらねばならない。
咋年度は操さんは能<勉強もしたし、又多忙な一年でもあった。

春秋2回の定期発表会、東京での2回の新人演奏会への出演、その間中野先生の指揮する名古屋マンドリン楽団の2回の地方公演にお供して、ギター独奏を受けもった。

本年一月は東京での受賞記念演奏会と大いに活躍し、或る程度の成果を挙げたが、音楽の道は遥けくきびしくギターの勉強もやっとその緒についたに過ぎない。加藤操さんの将来の大成を皆様と共に期待し、見守り育て4行く責任を痛感する。

幸い名古屋には恩師中野先生が居られるので、平素何かと御指導を受けて居り、操さんの育成にも御教示を蒙りつ4大過無きを期したいものである。

[出典]:digitalguitararchive/1959-42-ギターの友/P.16-P.18

佐々木政夫氏宅

佐々木政夫氏宅
佐々木政夫氏宅

ギター一家 佐々木政夫 氏宅

ここ佐々木政夫氏宅は大変な「ギターー家」とでも言うべきである。
毎日楽器を手にしないのは家族のうちでも実に少なく、お父さんを筆頭に長女マユ子さん(18才.)、政次君(16才〕、忠君(14才)、紅子さん(12才)と続々8人家族のぅちの5人までがギター選手である。
1世帯に1人の選手があっても大変なのに、5人もそろってはてんやわんやの大さわぎとのこと。
したがって一分のすきもなく1日中誰かが弾いていることになる。
訪門してみると必ず奥の方からポンポン咅が聞こえてくる。
おまけに隣はまたまた奥田絃正氏のスタジオとあってはギターの繁華街にでもなりそうだ。

長女マユ子さんは、最近学校を終えてお勤め中。
楽器はィタリー製だが名前がわからない。
学校を終えると何やかやと帰りが遅くなったり、家に帰ってもお伝いなどで忙しいらしくレッスンもろくに出来ないとこぼしていた。
あつさりした明るさをもっているらしく、その様な苦言を吐いた後もさっぱりとしている。
政次君の愛器はカラチェで最近めっきり上逹をみせているという。
男の子だけにファイトもあるし、この軍隊の総指揮官の様にみえて、仲々彼の発言力には強さがある。

四人そろっていろんな所に出演しているが、昨年ラジオの家庭咅楽会で優勝した時は本当にぅれしかったと、当時の模様をこまごまと話していた。
朝は下の子達の登校があるので6時に起きて、30分乃至1時間の合同練習(合奏)をするが、お父さんだけこれに欠席するのでずるい。

みんなを起してから又布団の中にもぐり込むんだもの。
というのが総指揮官政次君の言だ。

お父さんの方にもそれなりの言い分がある。
練習は朝起きた時が最もしよいし、効果が上るのが朝練習させる第一の目的であるし、昼になって自分が出かけると、誰も楽器を手にしようとしないで帰ってみるといつも遊んでいるので朝の起し役を決心したとの事。

合奏をさせた理由は特別にないが、独奏で独走させないでお互に広く音楽を作り、身につけてもらいたい。
しかしながらその中でも自分のベースを守り心身共にそろうようになれば。
というのがお父さんの念願である。

夜は個人的に主な技巧を習得させているが、小学校の頃一生懸命やらせたことを思えば大きくなって来るとなかなかうまくいかないということだ。

次男、忠君も兄さんに負けない程の活躍ぶりをみせ、エンべルガをかかえていろいろな方面に出演している。

NHKのオーディションに合格してからはめっきり放送関係が忙しいとか。
彼にはもう一つの課題である学業をひかえている。
普通の時ならよいが、出演のための練習と学校の試験が一緒になると初めのうちはよいが、日を重ねて来るに従ってノビチャウそうだ。
坊主頭をなでてちょっとテレた話しぶりは、なかなかの愛嬌とまじめさを示している。

愉快そうなみんなの話を隅の方でニコニコきいているのは一番後輩の紅子ちゃんである。
自分の手にもっていた楽器名をきくと、ただ「イバニエス」をポッンと答えくれた。
ケイコ場に置いてあるテープコーダ丨は、この四重奏団愛用のものらしく、ハチヤトリャンの「剣の舞」、モーッァルトの「トルコ行進」などつきることなくまわっていた。



[出典]:digitalguitararchive/1958-08-No.16-ギタルラ/P.13